文殊の知恵と民主主義

「三人寄れば文殊の知恵」というのは強く否定したい。
賢くない人の思いつかないアイデアは、賢い人が思いついても受け入れられない。
誰かがすごいことを思いついても、あとの二人に否定されてしまうのだ。
賢い人にとっては残り二人がお荷物で、残り二人にとっても変なこと言うやつは不要。
人は三人寄ったとき、一番賢くない人に合わせることになるもの。
もしくは一番賢くない人が考えるのを放棄し、残り二人の賢くない方にあわせるか。
そもそも賢さとは人に合わせる能力と同等になりがち。
足が速い人は遅い人に合わせられるが、遅い人が速い人には合わせられないのと一緒。
賢くない人は賢い人に合わせられないんだから、文殊の知恵は決して実現できない。
賢くない人から見てのすごいアイデアは、賢い人が妥協して合わせてくれた妥協案だ。
みんなで物事を決めるってのは、すなわち一番足の遅い人に合わせて歩くことだ。
みんなが理解出来る、最も賢くない方法で一致するしかなくなる。
民主主義ってのはつまりそう言う、みんなで決めれば上手く行くと思ってる幻想なのよ。
みんなに理解されなければ、上手く行く方法があっても実行されない。
国民はよく考える能力があり、上手く行く方法を理解する能力があると思い込んでいる。
現実には政策なんか誰も聞いてなくて、不倫したかどうかで候補者を選ぶ。
候補者も仕事は不倫しないことであり、誰もが理解出来る一番バカな政策を出す事だ。

税金を下げますっていえば誰でもわかる。
賃金を上げますって言えば誰でもわかる。
どうやってって言われたら複雑な答えを用意しても誰も理解出来ない。
じゃぁ何で選ぶかって、大学どこでてるか、顔が良いか、不倫してないか見たいになる。
実質、少なくとも日本では政策で選ぶ選挙は行われていない。
これを民主主義というなら、あたしは参加しない。
こんな奴らと同じ一人一票なんかバカバカしいわ。
自分が皆さんと同じ一人の国民である事を、あたし自身が認めたくない。
一緒にされるのは不愉快だ。
おまえらとは違うので、おまえらと同じ一票を行使する儀式への参加は拒否する。

この間も、地元から出る候補者を応援してくれって、知り合いの知り合いが来たよ。
そういう根回しでやる民主主義に参加する意味あるのかよと。
いまだにそんな地盤みたいな物で選ばれるだけの儀式の何が尊くて投票するんだ。
貴重な一票なら誰かにくれてやるわ。
飯でもおごってくれたら誰にでも入れますよ。
こんなことで誰が選ばれようが、そのせいで世の中がどう変ろうが興味もない。
そら国民全員に一票ずつ入れさせたら当然そうなるさっていう結果の国になるよ。
好きにやれや。

到底無理ではあるが、あたしはこんな民主主義の終わりを願っている。

たぶん関連のある記事:

コメントは終了しています。