ババァのリュック
スーパーのトイレで、うちのババァのリュックが盗まれた。
中には金目の物は入ってなくて、すぐにスーパーで見つかって戻ってきた。
良かったのか悪かったのかっていう感じの話。
盗まれたから悪かった、帰ってきたから良かった、というだけで終わればいいのだが、
その盗んだやつが捕まるわけでもないっていう所で、また余計な怒りをぶつけたくなっちゃうんだよな。
少なくとも今回盗んだ人は、もうそのリュックは覚えたから、次から同じリュックは盗まないよ。
今回はその盗人に、このリュックは取っても意味がないということを教えたことになり、
今後、その同じ盗人には盗まれることがないという、より安全な立場を手に入れた。
その盗人が、次によその人のリュックを盗んだとしても、我が家では何の損害も出ない。
だから別に、その盗人を警察が突き止めようが、あるいは探しもせず怠けようが、まるで知ったこっちゃない。
どうでもいいことのはずなのに、どうしてこれほどまでに、うちのリュックを盗んだ犯人を死刑にしたいのか。
リュックが戻ってきたから良いとかいう話ではおさまらず、絶対捕まえて欲しい。
なんで指紋も調べずにリュックを返すのか。
たかが置き引きだから、最初から犯人を捜そうともしない為体。
たとえ現行犯で捕まえても、ごめんなさいって言えばすぐキャッチアンドリリースなんだろ。
だから、盗んで捕まってもたいしたリスクはないし、そもそも捕まらないし、
それでいて、うまく行けば中に現金がそれなりに入っていて、働くより楽に生活ができる。
今のこの社会では、盗人は賢い選択なので、そうやって得をしている人達になんとか損させてやりたい。
どうしてこれほど、よその人の不利益を考えてしまうのか。
なぜ、自分が得したいと思うよりまず、他人に損させたいと思ってしまうのか。
答えはわかった。
自分が既に、これ以上得をしなくても生きていける程恵まれているからだ。
ギリギリの生活をしていれば、他人のことなどどうでも良く、自分が生きることに精一杯だ。
ギリギリで生活していなくて、ある程度幸せで、しかも、これ以上の幸せを求めるとなると、
やはり他人に不幸になって貰い、それを見て比較して、より自分が幸せだと感じる事が安易だ。
自分が満たされていて、かつ他人も満たされているなら、みんなが満たされた理想の世界のはずなのに、
それでは全然足りず、自分が他人よりちょっと勝ってないと、いくら満たされても終わらない。
ギリギリであればこそ、生きていけるだけで満たされるが、そうでないとそれ以上の欲が生まれる。
欲が自分の利益のために向かえばいいが、利益をあげることは通常は難しく、
それに比べて、他人に不利益を与えることは簡単だから、簡単に自分を勝たせる方を望んでしまう。
他人に不利益を与えるという勝ち方は、自分に利益がないんだから、
勝ったという満足感は得られても、他に何も得ていない。
他人に不利益を与えるだけの労力を、自分の利益を得る事に費やした方が理にかなっている。
昔から言われる例では、出る杭を打つのではなく、自分も出る杭になる方向に考えた方が得だ。
ギリギリの生活をすることで自分の心を清くしようという話ではない。
ギリギリの生活をせず、かつ他人の不利益より自分の利益を優先する習慣をつけたいという話だ。
よその人に害を与えるなと言う話でもない。
最終的に得になるならよその人に害を与えても平気だが、得しないなら考えるだけ損だという話だ。
盗む時と捨てる時でダブルでリスクを払ったにもかかわらず、ババァのリュックにはろくな物が入ってなくて、
その盗人は損したことになるので、「ざまあみろ」という嬉しい感情を持ってしまうが、
喜んだ所で自分は何も得してない、ただの錯覚だ。
盗人が逃げ延びて悔しいが、捕まっても得するわけではなく、怒りに無駄なエネルギーを使っている。
重要なことは、盗人は他にもいるから気をつけようという事だけだ。
地震に家を壊されても、地震を逮捕しろって思わないのと同様、盗人を同じ人間と思わない事にしよう。