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2008年 3月 19日 のアーカイブ
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※嫁に、チベットについて書けと言われたので、仕方なく書いておく。

中国に対する批判については、念を押すこともないので省略。
あいつらの話はしてもどうにもならないからほっとけ。
そんなことより公平にチベットも批判だ。

テレビでは、袈裟を着て暴れる坊さんばかり報道された。
たとえそれが中国政府による偏った情報提供だったとしても、暴れてる坊さんがいることはいる。
そんな破戒僧どもの親玉は既に安全な隣国に逃げて、事もあろうに非暴力を説いているという状態。
形式だけのボスが非暴力を説き、実際には末端の坊さんが暴力をふるう。
たとえそれが正当防衛であったとしても、あるいは、先制攻撃でない報復であっても、
非暴力が徹底しているとは言えない事だけは確かだ。
出来ないけど非暴力を目指しているんですよってんなら、そうですかと納得できるが、
だったら、まるで非暴力が徹底されているかのように、誇らしげに言える立場じゃない。
非暴力はみんなが目指してる理想であって、お互い達成出来てない者同士、軍も僧も同類でしょ。
僧の方がちょっとばかし余計に非暴力を目指しても、状況次第で暴力を行使するんだろ。
勝手に掲げた努力目標にすぎない物を、まるで達成出来てるかのように他国にアピールして、
自分たちは非暴力だから善、中国は暴力だから悪、という図式で二分して印象づけようとしているが、
お互い暴力でやり合ってる同士のクセに、自分たちだけは正当な暴力だと主張するのは卑怯だと思う。

もちろん、チベットを批判しつつ、これは間接的に日本人を批判した文章だ。

うちは平和憲法があるから何も出来ませんよと、都合良く国連の活動を逃れておきながら、
場合によっては自衛のために戦闘機や戦車も出すよというダブルスタンダードは、
チベットの非暴力と同じで、対外国向けの卑怯なキャッチコピーを掲げているだけでしかない。
隣国がいまだに日本を帝国主義の軍事国家扱いするのは当然で、
軍があるにもかかわらず、軍がないかのように世界にアピールし、自分らは善だと主張して通るはずがない。
日本に侵攻されたことのある国には、また侵攻されることを想定するのが正常な危機管理だ。
日本が軍事国家でないと思ってるのは日本人だけ。
日本も、もし中国が攻めてきたら、守るために戦うし、戦うって戦争することだよな。
守ってドンパチするけどそれは戦争じゃないよ、なんて言わないよな。
あたしは以前、日本が侵略することだけが戦争だと勘違いしてたけど、侵略されるのも戦争だったわ。
義務教育にダマされてたけど、日本は戦争の準備してるね。
侵略は一応放棄したけど、戦争は放棄していなかったよ。
平和憲法によって、日本人が嘘つき呼ばわりされることはあっても、外国に誇れる憲法ではないね。

中国人から見たチベット僧は、非暴力を掲げつつ暴れる嘘つきどもで、差別対象になってると思うよ。
彼らは、日本人なら殺しても良いという教育を受けて、実際にそう信じているので、
きっと同じように、チベット人なら殺しても良いと思って差別しているはず。
戦争に負けたせいでいまだに米兵にレイプされてる日本と、チベットは状況が似てて同情するわ。
徹底できない理想を掲げてしまった者同士ということでも同情するわ。

オリンピックさえなければもっと盛大にやってるんだろうな。
オリンピックってそんなに大事なのか?
そんなに儲かるのか。
オリンピックをやりたがったせいで、中国の悪い所がいっぱい掘り起こされて、評判ガタ落ちじゃん。
こんな事になるなら、ボイコットされる前に自主的に開催をやめればいいじゃん。
既に、オリンピックをやるのに適さない国であることは世界の常識となり、
ここでやめても、このまま続行しても、これ以上悪くなることはあっても良くは絶対にならない。
たとえオリンピックで儲かっても、それ以上の損でチャラになるんじゃないのかな。
今さらやめればもっと損するから仕方なく開催するんだろうか。
中国から見ても、オリンピックがあるせいで今暴動を起こされたとか言ってるし、そしたらやめればいいよ。

スーパーのトイレで、うちのババァのリュックが盗まれた。
中には金目の物は入ってなくて、すぐにスーパーで見つかって戻ってきた。
良かったのか悪かったのかっていう感じの話。
盗まれたから悪かった、帰ってきたから良かった、というだけで終わればいいのだが、
その盗んだやつが捕まるわけでもないっていう所で、また余計な怒りをぶつけたくなっちゃうんだよな。

少なくとも今回盗んだ人は、もうそのリュックは覚えたから、次から同じリュックは盗まないよ。
今回はその盗人に、このリュックは取っても意味がないということを教えたことになり、
今後、その同じ盗人には盗まれることがないという、より安全な立場を手に入れた。
その盗人が、次によその人のリュックを盗んだとしても、我が家では何の損害も出ない。
だから別に、その盗人を警察が突き止めようが、あるいは探しもせず怠けようが、まるで知ったこっちゃない。
どうでもいいことのはずなのに、どうしてこれほどまでに、うちのリュックを盗んだ犯人を死刑にしたいのか。
リュックが戻ってきたから良いとかいう話ではおさまらず、絶対捕まえて欲しい。
なんで指紋も調べずにリュックを返すのか。
たかが置き引きだから、最初から犯人を捜そうともしない為体。
たとえ現行犯で捕まえても、ごめんなさいって言えばすぐキャッチアンドリリースなんだろ。
だから、盗んで捕まってもたいしたリスクはないし、そもそも捕まらないし、
それでいて、うまく行けば中に現金がそれなりに入っていて、働くより楽に生活ができる。
今のこの社会では、盗人は賢い選択なので、そうやって得をしている人達になんとか損させてやりたい。
どうしてこれほど、よその人の不利益を考えてしまうのか。
なぜ、自分が得したいと思うよりまず、他人に損させたいと思ってしまうのか。

答えはわかった。
自分が既に、これ以上得をしなくても生きていける程恵まれているからだ。
ギリギリの生活をしていれば、他人のことなどどうでも良く、自分が生きることに精一杯だ。
ギリギリで生活していなくて、ある程度幸せで、しかも、これ以上の幸せを求めるとなると、
やはり他人に不幸になって貰い、それを見て比較して、より自分が幸せだと感じる事が安易だ。
自分が満たされていて、かつ他人も満たされているなら、みんなが満たされた理想の世界のはずなのに、
それでは全然足りず、自分が他人よりちょっと勝ってないと、いくら満たされても終わらない。
ギリギリであればこそ、生きていけるだけで満たされるが、そうでないとそれ以上の欲が生まれる。
欲が自分の利益のために向かえばいいが、利益をあげることは通常は難しく、
それに比べて、他人に不利益を与えることは簡単だから、簡単に自分を勝たせる方を望んでしまう。
他人に不利益を与えるという勝ち方は、自分に利益がないんだから、
勝ったという満足感は得られても、他に何も得ていない。
他人に不利益を与えるだけの労力を、自分の利益を得る事に費やした方が理にかなっている。
昔から言われる例では、出る杭を打つのではなく、自分も出る杭になる方向に考えた方が得だ。

ギリギリの生活をすることで自分の心を清くしようという話ではない。
ギリギリの生活をせず、かつ他人の不利益より自分の利益を優先する習慣をつけたいという話だ。
よその人に害を与えるなと言う話でもない。
最終的に得になるならよその人に害を与えても平気だが、得しないなら考えるだけ損だという話だ。

盗む時と捨てる時でダブルでリスクを払ったにもかかわらず、ババァのリュックにはろくな物が入ってなくて、
その盗人は損したことになるので、「ざまあみろ」という嬉しい感情を持ってしまうが、
喜んだ所で自分は何も得してない、ただの錯覚だ。
盗人が逃げ延びて悔しいが、捕まっても得するわけではなく、怒りに無駄なエネルギーを使っている。
重要なことは、盗人は他にもいるから気をつけようという事だけだ。
地震に家を壊されても、地震を逮捕しろって思わないのと同様、盗人を同じ人間と思わない事にしよう。