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本音と建前があるから、どれを信用していいかわからんよ。
でも一応日本の立場としては、韓国に報復してるわけではないって事になってるよ。
日本が韓国に嫌がらせを受けて、それに仕返ししてるわけじゃないって事になってるよ。
仕返しじゃなくて、安全のために必要なことをしてるだけって事だよ。
日本の建前上はそうだけど、もし、それを真に受けると日本にとっても不都合がある。
仮にこれが日本の報復であるならば、韓国から何か譲歩を引き出せるのよ。
極論を言えば、「竹島返すから報復やめて」ってお願いが出たら日本はどうするのか。
竹島を帰して貰う代わりに、韓国の密輸を見逃してあげる訳に行かないだろ。
報復じゃなく安全のためにやってるのに、交渉されても安全は放棄できないよな。
竹島返すっていわれたら返して貰うけど、輸出の規制はそれとは別の話だから継続。
徴用工ごめんなさい、慰安婦ごめんなさい、全部ごめんなさいって言われてもダメ。
韓国がなんらかの謝罪や譲歩を見せても、安全上の輸出規制ははがすことが出来ない。
約束をたくさん破ったので、信用してよい国から外すことになった。
では、これから韓国が譲歩して何か約束したとして、その約束は信用出来るか。
いや、約束ではなく実行を伴わなければ、失った信用は取り戻せない。
こうならないために約束は守るのに、守らないなら再び信用するまでには時間がかかる。
その時間をかけられないまま、韓国が破綻するかも知れないらしい。
あたしは個人的には、国民はこのことに関心を持つべきでないと思っている。
せっかくタピオカが流行ってるんだから、台湾ブームに沸くべきだ。
みんなが台湾の料理や美人棋士に夢中になり、親日な国と友好的に交流すべきだ。
こっちも台湾ブーム、向こうの日本ブーム、見たいになれば理想的だ。
え?まだ韓国とか言ってんの?っていうくらい無関心になればいい。
関心を持てば持つほど何かがぶつかって損をするわけで、無関心になるべき。
ぶつかるだけ損なので、何もわからない、知らない国になっちゃえばいい。
それは努力じゃ出来ない事なので、別のことに関心を持ったらいい。
特に台湾が今は最適だ。
爺婆しかもう韓国のドラマも食べ物もわからないってくらい、古い物になればいい。
親がいくらケンカしてても、子供同士は一緒になってケンカすべきでない。
子供同士は違う私立の学校に行って顔を合わせないってのが、一番ケンカにならない。
それがあたしの理想の日韓関係だ。
でも今はちょっと、韓国の国民は日本に関心を持ちすぎている。
親のケンカに子も参戦したくてしょうがなくなっている。
これに対して日本の方からも興味を持つのは、ぶつかって損するから好ましくない。
何でもめてるとか全くわからないくらいに興味を持たなくなった方がよい。
ただ、それは今回のことで韓国が破綻するわけないと思ってるからだ。
破綻するなら破綻する方がよい。
そうしたら親同士のケンカも終わる。
親のケンカが終われば子供同士は仲良く出来る。
まぁ、向こうの子は親の敵を討とうとするかも知れないな。
敵も討てないほどに本当に破綻してしまうなら理想。
でも破綻はしないだろうし、だからもう日本は他の事に興味を持とう。
話して通じるわけないんだから、忘れて別の子に興味を持とう。
いつまでも韓国と仲良くする努力をするな。
別の人と仲良くなれば、韓国のことは忘れるだろう。
忘れてる間に破綻してるかも知れないし。
青森県にはねぷたとねぶたがあって別物だが、同じねぷたでも黒石市と弘前市は別物。
あたしの生まれ育った場所は弘前市と黒石市に挟まれた、両方の影響を受けた場所。
今では市町村合併で平川市になってしまったが、寄せ集めただけなので地方色がある。
うちの近辺はもともとねぷたが存在せず、子供達が自主制作のねぷた工作をやっていた。
らしい。
その子供だけで作ったねぷたを引きながらトリックオアトリートしてたらしい。
これはあたしより一回りくらい上の世代がやってた、夏休みのお小遣い稼ぎだったと聞く。
あたしの記憶にある時代は、町会の大人が仕切ってマトモなねぷたを作るようになった。
ただ、たとえ大人が仕切ってねぷたが大きくなっても、即席の偽物に変わりはない。
なんとなく弘前と黒石と両方のマネをしたような、偽物のねぷた囃子を演奏していた。
弘前も黒石もちゃんと大人が演奏してるんだけど、うちらは子供だけでやってた。
ナンチャッテ太鼓にナンチャッテ笛で、ぶっつけ本番、練習なしで誰でもやってた。
現在は、本番の前に二週間の練習があり、大人も混じって演奏している。
黒石ねぷたでもないし弘前ねぷたでもない真似事ねぷたなので、そもそも正解はない。
が、一応は黒石のねぷた囃子をやろうという事で、楽譜なんかをダウンロードしている。
でも楽譜で表現しきれない演奏方法が多くて、それを伝承できる人が不足している。
完コピする必要はないのかも知れないが、結局まだ、ナンチャッテ演奏で終わっている。
楽譜だけじゃなく音源もダウンロード出来るようになっている。
楽譜を見てその通りにやっても、音源と同じにならない。
音源と同じにするためには、楽譜にもっとたくさんの書き込みが必要になる。
が、それをいちいち書いてたら逆にとっつきにくいって事になるのかも知れない。
囃子の上級者ってのは、書道の上級者と同じで、わざとアレンジを加えるんだよ。
そのアレンジも、どこまでが必要な行程でどこからが蛇足なのかわからん。
たぶん誰もわからん。
んで、楽譜に書いてあるとおりやるのが基本、それ以上は出来る人だけってなる。
でも楽譜の通りじゃ基本までも辿り着けてない。
目で入ってくる情報と耳で入ってくる情報がだいぶ違うわけだ。
楽譜の情報を捨て、耳で入ってくる情報と同じ音にあたしは工夫して近づきたい。
が、もはやダウンロード出来る音源の方の演奏が出来る人材がいない。
二週間の練習でみんな楽譜通りの方を練習し、わかることだけしかやる余裕がない。
ナンチャッテ演奏だとわかりつつ、みんなで不正解を演奏するしかないんだよ。
出来る大人がいなくなったから、出来ない子供だけでやる演奏に戻った状態だ。
楽譜だけは大人が用意出来るけど、楽譜と音源の違う部分を教えられる人がいない。
そしてなにより、一年でその期間だけしかやらないから、楽譜通りまで覚えて限界だ。
熱心な人は本場の祭に参加して練習するしかない。
あたしはその短い練習期間で、どうにか本物に近づこうと研究しながらやってる。
が、期間が終わってもまだ練習するってほどの情熱はない。
本物のやり方を習いに行く情熱もないし、短期で熱くなってすぐ冷めておしまい。
これで我慢するしかないんだけど、耳では違うってわかっちゃうのがつらい。