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2008年 1月 10日 のアーカイブ
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趙治勲の「おぼえたての碁」を、おぼえたて以来で読んだら面白くてためになったので、
その頃に買った別の本も、今読み返せばためになるだろうと考えた。
ほかにおぼえたて以来読んでない本といえば、石倉昇の「最速上達法」という本だ。
期待して読み返したが、あまりにも期待はずれで、最初の方だけ読んでおしまいにした。
おぼえたての時から既に、いろいろおかしいと思っていたが、その後にちょっと覚えたことによって、
当時はおかしいとすら気がつかなかったことまで気がつくようになり、いっそうおかしい本に見えてきた。
おかしいことしか書いてないページを読むのが苦痛になり、読み返すのは途中でやめた。

おかしいのは、彼が勝手に作った法則だ。
より多くのことを総括して短い言葉で表現して、法則と呼びたがっているようだが、
考える役には立っていないし、理解を妨げる言い訳になってるので、初心者に教えるのはやめて欲しい。

たとえば「まわりにきたらごあいさつ」などと、法則をわかっていたとしても、
どうなった時に「まわりにきた」から「ごあいさつ」が必要なのか、曖昧すぎてわからない。
ごあいさつが必要だとすれば、どんなごあいさつを、なぜするのかもわからない。
既にあった着手について、これは「まわりにきたらごあいさつ」だったと、後付けで説明する事はできても、
初心者が着手を決める時に、「まわりにきたらごあいさつ」だからどこに打てというのかはわからない。
どんな状況でどんなごあいさつが必要かがわかる人は、そもそも法則が不要なレベルの人だ。
わからない人にわからなくする法則を授けて、そのせいで余計わからなくしてどうするんだと。

ナナメにご用心、ナナメを狙えは、それ以上に曖昧で無意味。
ナナメは断点になることが多いので、結果的にこの法則に当てはまってしまうだけで、
理由もわからずにナナメを用心することも狙うことも到底不可能だから、
当てはまって打たれたということはあっても、当てはめて打つということは出来ない。
何手か先を読んでようやく答えを出せるのに、まるで万能な法則で答えを出せるかのように書いてある。
初段までは読みも暗記も必要ないなどと豪語し、法則で答えを出したかのような書き方だが、
法則からは答えを出せないのは著者もわかってるはずだが、わかってて嘘本を書いたのか。

「はなしてきたらはなしてうつ」も同様に最悪だ。
なぜ?どこへ?
これは例えば、相手が空き隅を取ったら自分も空き隅を取れとかを言いたいらしい。
ごあいさつならまだ打てる範囲が限定されるからマシだが、離して打てる場所は広大すぎる。
ここまでくると、役に立たないだけでなく、わからない人を更にわからなくする有害法則に思えてならない。
読んでも強くならないどころか、読めば弱くなるかも知れない。

法則がゼロかマイナスであったとしても、それだけではまだ問題にならないが、
最大の問題は、プラスになったと勘違いしてしまうことだ。
いろんなケースに当てはまる曖昧な法則なものだから、いろんなケースを理解した気になってしまう。
教える側も、いろんなケースを教えた気になっているのかもしれない。
わかった気にさせて満足感を与え、実際はわからなくさせているという、
宗教本の手口を無意識でやってるのかわざとやってるのか。

おぼえたての頃に一度読んだ感想でも、やはり法則に文句を書いた。
http://wantech.ikuto.com/diary/55igo/2007/07_0910_1238.htm
文句は言いながら、法則さえなければ良い本だとし、70点と書いてある。
今なら20点以下の評価を下す。

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年末年始は、ドラマの出演者がバラエティー特番に出て宣伝するので、
どこの局でどんなドラマが始まるのか、だいたい把握してしまっているのだが、
その中で、エジソンの母とか言うのの予告に、腹が立って仕方がない。
何でもかんでも理由を尋ねる子供にもムカつくが、それに答えられない大人を登場されるのが腹立つ。
おそらく、たいがいの大人は素朴な疑問に答えられないだろうが、
答えられなくてブチ切れるまでしつこく、疑問をぶつけまくる子供ってどうなのよと。

ドラマを見ていないのであくまで予想だが、そうやって何でも疑問を持つ子は頭がいいって言いたいんでしょ。
でも、質問してもどうせ答えられないであろう大人を見抜き、そいつには質問しない方が賢いよね。
質問に答えて欲しいなら、答えられる人に訊くべきであって、答えられない人に聞くって事は、
単にひねくれていて、どうせおまえもわからないだろうとか、問い詰めてやろうとか、悪意に満ちているよ。
そうではなく、純粋にどうしてなのか答えて欲しいとしたら、やはりネットで悪く言われる教えて君だな。
このドラマから、性格的にも知能的にも問題がある子を賛美しそうな雰囲気を感じるし、
そのための表現手法として、疑問に答えられない大人をわざと登場させるいやらしさに腹が立つ。

1+1はなぜ2なのかと子供が質問したとする。
もちろん、大人が理論的に考えて答えを出すことは可能だが、それを子供が理解するのは不可能だ。
理由を説明するのではなく、自分で考えてわかるようになるために、これから多くの事を学ぶことになる。
子供の能力を鑑みて、わかるであろう事から順番に教えて行こうという時に、話の腰を折られては困る。
だから、理由がわからなくても、それはそうだと納得して貰って、後にもっと知識を得てから研究すればいい。
それに納得が出来ない子が疑問を持ち続けるのはいいことだが、訊けばわかると思うのは不自然だ。
たかが数年しか生きてない子供だとしても、その数年の間、大人がどれだけ質問に答えられたか、
あるいは、質問の答えにどれほど納得できたか、経験的にわからない子は存在し得ないだろ。
そんな効率の悪い好奇心を持っているとしたら、逆にエジソンっぽい子を演出するには無理がある。

訊けばわかることか、調べればわかることか、考えればわかることか、どうせわからないことか、
我々はまずそこから考えて、訊く方が早いか、辞書を引くのが早いか、諦めるべきかを決定し、
効率を考え、無駄なことをしないようにし、より得をする方法、より楽な方法を選択している。

さてそこで囲碁の話だが、理論的に説明できることと、誰もわからないことがある。
たとえ理論的に説明しても、その理論が難しければ、ある程度精通した人しか理解できない。
初心者が囲碁学習には、考えればわかること、わからないから暗記すること、無視することの区別が大事。
あたしの場合、詰碁なら訓練を繰り返せば理解できるようになりそうで、まずそこをやっている。
定石は理論的に説明されても理解する能力がないので、まだ理解する努力はしない。
布石は理論的に説明できないようなので、なんとなく慣れるだけで、理由まで理解するのは諦めた。

本当は理由をどこまでも追求する方が面白いが、そうも行かないことはいくらでもあるわけで、
そういう時、趣味で追求するのは誰にも迷惑をかけないから、いつまでも勝手にやってればいいけれど、
教えろとか一緒に教えろとかって、個人的な疑問に周囲を巻き込むのは行儀が悪い。
そんな子供でも心得ている事で、子供だましのドラマを作ってそうな番宣が嫌い。