[日記的なもの/囲碁/2008]

布石の読み / 2008-01-07 (月)

新春なんとかという番組で、夫婦で囲碁のプロ棋士という人達がペア碁をやっていた。
碁を打ってる二組の夫婦は全然知らないが、解説をやってた人は著書も買ったから知っている。
書いた本も好きじゃなかったが、実際に喋っている依田氏も印象は悪い。
喋りたい事だけベラベラ喋って、嫁さんとのコミュニケーションが取れていないように見えた。
夫「これは悪い」嫁「どう悪いですか」夫「なんだか悪い」っていうと解説にもならない。
番組の冒頭で、囲碁を知らない人でも楽しめるようにって言ってたのに、
理由を説明せずにただ「悪い」しか言わないと、考える楽しみすら伝えられないと思うのだが。
嫁さんより囲碁が強いくせに、強い分だけ多くを人に伝えると言うことはないようだ。

求められる必要なことは言わずに、好きなことだけ言った中に、何手読めるかの話があった。
読むだけなら1000手読めるが、ただ読むだけじゃなく、良いか悪いか判断するのが重要なんだと。
プロはそうかも知れないが、初心者はまず読めもしないので、これははるかな高みの話だ。
はるかな高みなので、全く参考になる話ではないが、1000手読めるという点が気になった。

詰碁が読みのトレーニングになるという話を信じて、詰碁をどんどんやっていったら、
たしかに、ない石をあるかのように想像する能力が身についてきたのだが、
その能力は詰碁でしか発揮されず、詰碁で5手先がわかっても、布石で5手先は全然わからない。
布石で何手も先が読める能力は、詰碁のトレーニングでは身につかない気がしてきた。
プロのように1000手は無理でも、たった5手先を布石の段階で読めるようになれないものだろうか。

布石の段階でどのくらい読めないかというと、自分が打つべき1手が見えることが少ない。
自分がどこに打ちたいかという候補がないくらいだと、その後で相手がどこに打ちたいかも見当がつかない。
詰碁なら、打ちたい所は三つくらいあって、相手の応手もそれぞれ三つくらい思い浮かぶ。
いや、詰碁でも難しいものは、打てる場所が10以上あって、自分の1手目が全然見えないことがある。
自分の1手が見えないと、相手がどう応戦してくるかも全く見えない。
無限の時間と根気があれば、しらみつぶしで考える事も可能だろうが、大概はあきらめる。
布石の状態も、打てる場所が多すぎてしらみつぶしは不可能だから1手も読めないんだろう。

いくらわからないと言っても、ハネの時に切るかどうか、切ったらどうなるか、アタリを逃げるかどうか、
っていう局地戦の先は読めるわけで、読めないのは石が接していない時のどこが大きいかだ。
で、そのどこが大きいかを知るために、その後で石が接してどうなるかを読めなきゃいけない。
読めなきゃわからない、わからなきゃ読めないで、双方依存する形になってしまうんだな。

で結局は、読めなくても知らぬ間に暗記した経験を、勘で再生する勝負になってしまう。
すると、何がどう良いのか悪いのかを解説できず、結論しか言えない強い人になってしまう。
あたしの場合、何を勉強したらどんな力がついたとかいう学習プロセスにこそ興味があるので、
時間をかけて慣れて知らぬ間に強くなるしかないのは、最悪につまらないパターンなのだ。

理論で説明できることはプログラミングもできるので、コンピューターの強さが理論の限界なんだろうなと。
コンピューターでは敵わないほどの強さに達している人達は、全員理論を超越してるんだな。
それじゃ教えられてもわからないはずだ。




2008/12/03 (水) 更新 ©2005-2008 汁ムゴ魚 by Wantech
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