[日記的なもの/未分類/2007]

原爆発言について / 2007-07-03 (火)

議論とは、よその人と協力して真実に向かう最善の手段だが、
その議論が、単に相手を論破するための手段に成り代わり、人は勝つためには嘘も言うようになる。
自覚した嘘でなくとも、議論に都合がよければ確証が無くても持ち出し、
その結果、相手を言い負かしたり、あるいは聴衆の支持を得たとしても何の得があろうか。
本村さんの裁判でも、死刑を逃れるために茶番をしていると今話題になっているけれども、
裁判じゃなく日常生活においても、他人を説き伏せ、思い通りに事を運ぶために、
たとえ嘘だとわかっていても説得力のある話術で押し切る事など、あまりにもありふれているのだ。
そうなると、話し合いは相手を降参させて従わせるための、暴力を使わない戦争でしかない。
あたしとしては、話し合いは一人では辿り着けない真実のために力を合わせる場であって欲しい。
まぁ、人間である以上は無理な話かもしれないがね。

参院選があるということで、与党も野党も自軍のイメージアップと敵軍のイメージダウンに躍起だ。
国会でも真実がどこにあるか、どうすることが最善なのか、仲良く話し合って良い国を作って欲しいが、
やはりそこでも論破やらアピールやらで戦って勝つためだけの話し合いが行われている。
真実や最善を探り合っての話し合いなら、その最中に間違ってる方が正しい方の意見に納得するはず。
しかし、国会では「確かにそっちの方が良いね」なんて結論に辿り着くことはなく、常に戦っている。
「常に」っていうことは、仮に一方が正しくても他方が人数で勝てば、勝ってる方が折れることはないわけで、
つまり、自民党が間違っていたら何を言っても修正される可能性はゼロだということなんだよな。
全くのゼロなんだから、国会で議論するってこと自体が無意味なシステムだ。
一見、与党と野党が戦っているように見えるが、次の選挙で勝つための見せ場を奪い合ってるにすぎない。
議員は自分の利益のために戦うし、支援者もより自分に利益をもたらす人を戦わせる。
戦うのをやめて、全員の利益になる最善の策を考える人、相手の話を聞く人なんて、あそこにはいない。
国会ってバカバカしいシステムだよな。

他人の言うことに耳を貸したら食っていけない連中なものだから、読解力も非常に低い。
発言にどんな意図があったかより、どう解釈すれば攻め崩せるかを考える最低の輩だ。
っという事を、国会議員の不適切発言がある度に思ってきた。
今回の原爆の容認についても、議員だけではなく被爆者の連中の馬鹿さ加減に、
あいつら何で戦争で死んでくれなかったんだろうと思うくらいにあきれかえっている。
ガンコで誰の話も聞かない、議論の余地がない連中はあいつらだ。
それに比べて大臣は、被爆県出身なのに原爆批判ばっかりにこだわらず、
もしも前向きな議論が出来るならあの忌まわしい過去の原爆すら許せるという対照的な人なのに。
今後の戦争での核の使用を許したり、現在の紛争を解決するために核を検討したんじゃないだろ。
よそで起きた戦争の死者を仕方ないと言ったわけでもないだろ。
あくまで自分が受けた過去の悲惨な体験、子供の頃の不幸について、その被害者当人が、
起きてしまったことを許してポジティブに発想転換しようという発言をし、一体何が問題なんだと。
それとももうやり直すことが出来ない過去に何十年後もグチグチ不満を言ってないと大臣失格かよ。
もちろん原爆は許せないって事で決定だけれども、そこにこだわって聞く耳持たない人よりも、
そんな聞く耳持たない人しかいない県で育ったくせに聞く耳持つ人ほど大臣に適格だと思うんだがね。

産む機械と同様、今回も一番あきれてしまった相手は社民福島。
でも今回はそれに加え、大臣を擁護しない自民にもあきれている。




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