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また一つ本を読み終わったので、もう一度、前回と同じ五子のハンデでバリュー囲碁に挑む。
今回は60目差で勝つことが出来て大進歩。
ちなみに前回の五子局はこれ。
前回どうしてこんなに押されたのかと考えてみたら、置いた5子を連絡させることに執着しすぎたかと。
すなわち、白よりも先に真ん中へ行こうとしてしまったことが押し合いをおろそかにしちゃったかなって。
今回はちゃんとヒラキを打って、上辺は分断することで白地を減らしたし、下辺もバッチリ封じ込めた。
右辺は拠点を作られた上に滑り込まれたし、天元あたりは孤立して4子取られてしまったが、
押し合ったことで左辺が自然に黒地になった事が一番の勝因。
今回読み終わった「最速上達法」は、広く浅くなんでも書いてあったという印象で、
この本だけで初段になれるかのように書かれているけれども、これじゃ全然足りない。
ただ、布石からヨセまで全部を書いているわけだから、読めば打てるようになるのは間違いない。
ざっと書いてあるんだから、ざっと出来るようになるのが限界だ。
ただ、著者はこれが出来れば初段だと言ってるんだから、目標は意外に低いのかも知れない。
難しい問題が解けるようにならないとダメかなと思っていたが、
簡単な問題を完璧に出来るようになる方が近道っぽい。
この本をもう一度読み返したいし、最初に読んだ趙治勲も読み返したいが、
まだ3冊も読む本があるからそっちが先だ。
よく、頭の中がゲームでいっぱいになって眠れないことがあるが、
落ち物パズルゲームにはまった時は、頭の中でブロックを積むようになる。
テトリスでいえば、素人は真っ直ぐの棒が落ちてきて4段消えるシーンを思い浮かべるが、
玄人はいくら待っても棒が降ってこない、四角やカギ型ばっかりの最悪状態を思い浮かべる。
想定される中で最も嫌な物が降ってきてもなお耐えられるよう、トレーニングするわけだ。
他の落ち物でもテトリスと同じで、何が降ってきてもしのげるよう、ゲームやってないときに訓練する。
いわゆるイメージトレーニングだな。
うまくいかない時どうするかをイメージするからトレーニングなんであって、
うまくいくところを想像するのは何の意味もない。
この懐かしい感覚を今、囲碁の本を読み進めて思い出している。
活字ばかりの本を読むときは、その書いていることさえ理解すればそれでおしまいだ。
そりゃ人によってテキトーに読む人もジックリ読む人もいるだろうが、書いてないことまで読む人はいない。
しかし囲碁の本の場合、書いてあることだけじゃなく、書いてないことも読んでいかないと行けない。
このように打ちましたよと手順が書いてあるが、その全ての手の意図、自分でも同じように打つかを考え、
もし別の打ち方をしたらどうなるかも考える。
説明したい局面において、勝負が付いたらそれ以上の説明はいちいち書かれていないが、
書かれている場面の続きがどうなるかも考えながら読む。
ほとんどは相手が最強の対応をしてきた場合しか書いてないが、間違いを犯した場合も考える。
つまり、落ち物パズルのトレーニングで頭の中に積むように、碁石を頭の中で並べているのだ。
おそらく使っている脳の部位は全く一緒だな。
落ち物パズルは相当訓練してきたが、囲碁はこれからなので、まだまだうまく並べきれていない。
先まで読もうとするほどダメ詰まりを見逃したりして精度が落ちている。
頭の中だけで並べられないと、実物を使って並べて納得したりしている。
たかが本を読むのにこれだけのトレーニングをやりながらなわけだから、強くならないわけがない。
「あっというまに初段の実力」になる本は200ページほど進み、あと20ページくらいで読み終わる。
読み終わるというか、一通りトレーニングし終わる。
「たちまち強くなる」本も読んだわけだから、もう相当強くなってるはずなんだよな。
いや、まだ全然強くなってないのはわかってるけど、本を読んでれば強くなるという確信は持った。
もちろん、ここでいう読むは頭の中で並べる事だが。