一年勉強した
対局はほとんどしてないが、本はいっぱい買って、持ち歩いて暇さえあれば読むって感じで、
囲碁の勉強は一年ぐらい続いた。
家には小さい子供がいるので、碁盤と碁石を使った勉強は結局出来ない。
連続した時間を必要とする対局やら棋譜並べなんてできっこない環境ではあるが、
本を読んでの勉強がそれなりに面白いので、勉強は一年続けることが出来た。
本当は新作のゲームもやりたいし、ゲームの方が刺激が強くて面白いのだが、完全に我慢している。
囲碁の本さえ読んでいればゲームは我慢できる。
長くても数ヶ月でやめるゲームがうまくなるより、長ければ何年も続く囲碁がうまくなりたいと思うことで、
これまで多くのゲームに分散させていた努力を、一つの囲碁に集中しようという計画。
一年やってみた感じだと、これからも今までと同じような生活が続くなら、読書はずっと続けられそう。
でも、読書に飽きるとか、なかなか強くならなさすぎて飽きるとか、読書の時間がなくなるとか、
ちょっとしたことで生活のリズムが壊れれば、たちまちその時点で全てやめるかも知れない。
一度やめたらもうやらなそう。
カラーボックスを埋め尽くすほど買った囲碁本がもったいないという気持ちが、
やめたくないという気持ちを支えている。
で、やっぱり囲碁はわからないものだよ。
わかるものは言葉で説明でき、言葉で説明できるものはプログラミングでき、
プログラムで作られた囲碁があまり強くなれないということは、説明できない事が多いんだよ。
結局、説明じゃなく場数。
曖昧に言えば経験が大事ってことだが、ズバリ言えば記憶とその呼び出し。
以前は詰碁のように取るか取られるかしないとどっちの勝ちかわからなかったが、
定石やその変化において、互角かそうでないか、どっちが失敗したかわかるようになってきた。
以前なら、これは白が悪いって書いてなければ白が悪いかどうかもわからなかったし、
なぜ、どのように悪いのかも全くわからないことだらけで、囲碁の本は実に説明不足だと感じていた。
ようやく、そういう説明不足の本を読んでも、たしかに白が悪いと納得できる事が多くなってきた。
しかし、白がどう悪いのかを説明しろと言われても難しい。
これはすなわち、囲碁の本が説明不足なのは必然で、説明できないから回数をこなす。
たくさん比較して、その比較の材料としてたくさん覚えて、覚えたものと比較した結果、白が悪い。
どのくらいの成果を期待して打ったかと、どのくらいの成果が上がったかについて、
もっとうまく打てばもっとよかったと思えるのは、やはりもっとうまく打った結果を記憶しているからだ。
うまく打ってもそれ以上うまく行かないと記憶していれば、それ以上は追求しない。
結局、今のところはいっぱい暗記するしかないのが囲碁だ。
暗記を少なくするために論理的な説明に置き換えたい所だが、
それが出来るなら論理的にコンピューターを強くできるはずで、
今のコンピューターの強さこそが、今の説明できる限界と考えて良い。
対局しなさ過ぎて、勝敗関係ナシの勉強ばかりしてるせいで、ヨセとか完全に苦手。
あと、今持ってる本では隅や辺をどう打つかの話題しか載ってないので、
隅と辺以外を打つタイミングとか大きさとかが全然わかってない。
いわゆる穏やかな別れになった時、とにかく辺や隅以外でも大きいところを打ち、ヨセで勝負するが、
NHK杯を見てもほとんど、穏やかに分かれず、戦っている間に放送時間を使い切り、
ヨセのシーンは早送りになる。
勉強がかなり偏ってるとは思うのだが、まぁ、これからも対局しないならそれでも良いかな。