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2008年 2月 8日 のアーカイブ
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八段まで認定するチャレンジ紙上認定の追試結果が送られてきた。
点数は200点満点中173点で、「八段合格」のハンコが押されていた。

苦節半年、ついにアマチュアの最高段位を極めることが出来た。
ただし囲碁の対戦経験はネットで1回きりで、もちろん負け。
それどころかクライアントソフトでの死に石指定方法がわからず、モタモタしてる間に相手が退席。
買った本はカラーボックス二段分、ヒカルの碁を含めれば三段分。
中でも詰碁は毎日ヘトヘトになるほどやってるが、それでも初段レベルの問題がやっと。
テレビのNHK杯を見てもどっちが勝ってるのかもわからず、眠たくなっちゃう程度の実力。
前回の紙上認定では初段も合格できなかったが、それから一ヶ月後の追試で八段合格。
自分の実力は自分がいちばんわかっているつもりなので、この極端な結果をどう受け入れるべきかと。

今回は20問中正解が13問で、その他の不正解問題もなぜか部分点がついてきて、
合計は173点というデラックスな点数になっていた。
布石の問題なら次善という部分点もありだが、詰碁や手筋の問題で部分点はナシじゃないの?
全問不正解の人は一体何点?

ともかく、段級免許申請書、振り込み用紙が同封されていて、金さえ払えば免状が来る状態だ。
ただし、八段の免状は、既に六段以上の免状を持ってる人しか取得できない。
七段も同様だ。
八段合格したけど、八段も七段も申請できないので、じゃぁ六段を申請すればいいのか?
ところが肝心の申請書には既に、八段のハンコが押してある。
そして、もう一枚、段の欄にハンコが押してない紙も同封されている。
これはつまり、欲しい段を何段でもいいから書いて申請しなさいってこと?
それとも、八段合格の人は八段以外の申請は出来ないんですか?
八段合格の人は七段も六段も合格だという解釈でいいんですか?

仮に六段って自分で書いて送ったとして、あたしが六段以上の点数を獲得した事をどう証明するのか。
八段のハンコが押してあるやつなら、向こうで押したハンコだから偽りのないことは明白だが、
自分で六段て書いたら、なぜ六段を申請できるのかを相手にどう伝えれば良いんだか。

もし六段合格のハンコが押されていたら、あえて五段を申請するかどうかで迷うことはなかっただろう。
取れるうちに一番良い物を取っておきたいもん。
六段はディプロマ盾がかっこいいし、五段は額縁がついてくるし、それも魅力的だ。
でも、いざ八段のハンコだと、四段ぐらいにしておこうかななんて迷っている。
四段は五段より4万円安いし、三段より一万円高いだけだから、一番良いよね。

でも八段の人は四段の免状が買えるのかどうか、どこにも書いていない。
それよりそもそも免状必要か?
一切金を払わなくても、この八段合格と書かれた紙だけで十分じゃないのか?
どうする?

ずっと続けてきたことだからって正当化するのはおかしい。
時代によって正義も変わる。
昔はよいことだったのに、今はわるいことに変わった物がたくさんある。
ずっと続けてきた物をこれからも続けていくかどうか、という疑問を投げかけられた時というのは、
何か悪い点があるからこそ、そこを変えなきゃいけないと前向きに考えるべきなのに、
悪い点があっても絶対やめないし、その理由として文化伝統を持ち出すのは、後ろ向きで卑怯だ。

今朝、豚小屋の親玉が逮捕されたニュースで持ちきりだったが、
元力士らしきコメンテーターは、文化をそのまま守って後世に伝えたいと考えていて、
そういう物として続けるべきだという話をしていた。
ケンカしたらどっちが悪いかではなく、どっちが先輩かで決着をつけるのが伝統であり、絶対守りたい。
親方の言うことは絶対で、酔っぱらってても、法律とは矛盾してても、伝統だから絶対守りたい。
何も変えてはいけない。
親方が見てない所でやるのは暴行だが、親方の前でやればかわいがりであり、法律に違反しない。
って、人間社会の法律を豚社会の法律で上書きしちゃうのが、いかにも豚らしい発想じゃないか。
諸行無常、もののあはれを解する伝統的日本人が、伝統にしがみつくのは実に不愉快だ。

よその国の人はどうなのか知らないが、日本人は日本の伝統を過剰に大事にする傾向がある。
祭りとかも、多少危なくて死人が出ようが迷惑をかけようが、伝統だからと言われるとみんな納得する。
正しいかどうかの判断を誤らせる材料にしかならないなら、伝統なんて害にしかならないだろう。

さて本題は捕鯨問題だ。
諸外国からやめろとプレッシャーをかけられ、日本に売れば儲かると思っている後進国まで巻き込み、
捕鯨をやめるに値する理由は十分にあるが、続けるに値する理由が本当に存在するのか。
あたしは右翼なので、外国の言いがかりに屈するのは大嫌いで、ぜひ打ち負かしてやりたいが、
通るはずもない道理を無理に通すのではなく、納得できる話で押し切りたい。
ところが、捕鯨を行う理由が前述のような物であるため、話し合いすら成立していない。

クジラは日本が食糧難だった頃、貴重なタンパク源として重宝されたらしいが、
だったら、食糧難になった時にまた取ればいいし、食糧難でない時も取り続ける理由にはならない。
過去に捕鯨を行った理由が、今も捕鯨を行う理由にはならない。
昔必要だったことが、今も必要だとは限らないのだが、今本当に必要なのか?
今まで良かったんだからこれからも良いに決まっているなどという発想は、議論を避けてる事になる。
捕鯨という日本の文化を守りたいがために、もし世界全体の利益を損なっているとすれば、
それは相撲の文化を守りたくて法律を無視する豚小屋と同じじゃないか。

また、捕鯨に反対する西洋諸国に対し、「おまえらも昔は油が欲しくて乱獲したくせに」と返すのも無理。
昔やってたけど今は反省してやめた国に対して、昔やってた国は黙ってろ見たいに言って良い物か。
やめた国を黙らせた所で、自分たちのやってることが正当化されるわけじゃない。
俺だけ捕まえるのはおかしいって、スピード違反の人みたいな言い訳も通らない。
重要なのはただ一つ、今、どうしても捕鯨をする必要があるかで、
無いなら無いと言った上で、ようやく、やめるに値する理由が十分か検討できる。
文化だ伝統だと言って、全く話を聞かないでいる間、日本人として恥ずかしい。

一体どこに、捕鯨の必然性があるのか。
諸外国からの言いがかりに何で対抗すれば、奴等に思い知らせる事ができるのか。
ちゃんと議論して、どっちが正しいか決めるために、歴史を持ち出すのはやめようぜ。
すぐ歴史を話したがるどこかの朝鮮みたいで情けないから。