愛国心を掘り下げる
愛国心というものについて、最初に考えたキッカケは去年のこれ。
そのあとも何度か言及したけれども、最近あたしゃ愛国心は持ってないと思っている。
まず、ガンバレニッポン的なスポーツの応援については、
知らん国VS知らん国じゃ、どこを応援していいかわからなくて盛り上がらない。
ヤンキースの試合なら、松井がいるから応援できるが、ケガで出てなきゃ応援できない。
でも、松井が出てたせいでヤンキースの他の人の名前と顔が一致しちゃえば、
そのままヤンキースを応援できる。
つまり、我々のような素人は、誰を応援すべきかわからないスポーツに興味はないだけで、
ベッカムとかシャラポワとか、日本人でなくても知ってる人を応援したいんだよ。
誰かを応援した方が、やったこともないスポーツを楽しめるってのがまず一つ。
次に、そのスポーツを応援した結果、良い成績だった場合だ。これもまた別の話。
ベッカムやシャラポワが勝つよりも、日本代表が勝った方が盛り上がる。
青森県内では、カーリングの「チーム青森」の方が日本代表より盛り上がる。
自分が結果を出したわけじゃないけど、自分と共通点のある人が勝てば誇ってしまう。
誕生日が一緒とか出身校が一緒とか、昔近所に住んでたとか、どうでもいい話。
日本国籍の他人がノーベル賞を取っても、他の日本人がえらいと言うことはない。
これは成功者にあやかってるだけで、やはり愛国心ではない。
さて、上記のような話は愛国心とは関係ないから、除外して考えて他に何が残るか。
国旗を掲げて国歌斉唱することが愛国だろうか。
卒業式など公立の学校の行事で、公務員である教師がそれに反対するのはモラルの問題だ。
国旗にどんな意味があろうが、国歌にどんな意味があろうが、
みんなで一緒にやるべきものに反発しないで、とりあえず形だけでも参加できないのかと。
「教師だから一応やってますが」と付け加えて、意見を言うのがあたりまえ。
そんなわけで、あたしの場合は国も象徴たる天皇も愛してないけど、
旗を振るべき状況では振るし、歌うべき状況では歌うぜ。空気読むからな。
こんなもんは形だけのものであって、やっぱり愛国ではない。
中国と韓国とロシアとアメリカに固有領土を侵略されている問題によく言及しているが、
これだって、国を愛するからではなく、損得の勘定からいっているにすぎない。
仕送りがあれば外国に住めないこともないだろうが、
自分で稼いで生きていけそうなのは日本ぐらいしかないという現状において、
日本が損をすることは、自分自身も分担して損をすることになるから、出来れば得したい。
もし他の国で生きていけるなら、こんな島国は沈没しても全然大丈夫だぜって言える。
国同士の損得すらも、国を愛するからではなく自分の損得だということは、
もう愛国心として思い当たるものはなにもないよな。
というわけで、愛国教育を始めようという流れがあるわけだが、具体的にどうしたいんだ?
スポーツの応援なら自然に出来るし、あやかりなら無能な人ほどしょっちゅうやるだろう。
国旗や国歌は団体行動とかモラルとかを教えるべき話だよ。
他国との関係だって、3兆円とか具体的な損得が出ればみんな関心持つから問題ない。
竹島だって、アレが侵略されて具体的にいくら損してるか金額を出せば世論は動く。
結局、愛国教育は、隣国と比べていまいち団結してない我が国を懸念してるんだよね。
国を愛して欲しいんじゃなくて、団結して欲しいから、教育が必要なんだよね。
それはでも必要ないと思うよ。
隣国の愛国心は、仮想敵国を想定することで一体になろうとしてるだけだ。
何も誇るものがないから、何かで一つになることがあるとすれば、他国と争う場合だけ。
アメリカは大統領が支持率を上げるために戦争しかけるし、
韓国はいまどき徴兵してる軍事国なのに、
調査船が来たら軍国主義だってイチャモン付けて盧武鉉の支持率が上がる。
別に国を愛せと教育されてるからじゃなく、敵国を憎めと教育されてるから愛国心があるんだろ。
だから、単純に国を愛せと教育しても成果は上がらないし、
敵国を憎む教育をするなどというのはもってのほかである。
よその国と比べてやや思想と言論の自由があるからこそ、団結してないように見えるだけだ。
いまさら自由の面では後進国である他国にあわせようなどと、時代錯誤も甚だしい。
ここまで読んで、日本人は優れてるから愛国心がないんだなぁなどと、
愛国を語る輩は自分の手柄じゃない勝利に酔いしれていればよいのだ。