あいにく、死んでる人の方を強く軽蔑しちゃってるのだが。
今死んでも自殺ニュースが多すぎて、その中の誰なのか、どういう人なのか残らないよ。
自殺に付きものは遺書なわけで、その遺書がテレビで入るたびにバカにしている。
死のみを望むのなら、遺書なしで今すぐゴーで万事済むことなのに、
彼らが真に望んでいるのは、自分が死ぬことによる他人への何らかの影響なのが笑える。
ホントに自分がお荷物だと思っているなら、遺書に書いてさらにお荷物になろうとするわけがない。
ごめんなさいって思ってるなら、生きてる状態で謝って、迷惑かけずにゴーすればいい。
死んだ後の世の中を想像しちゃってると言うことはつまり、死に対する間違った認識がある。
公開される遺書に全て共通な、生きてるよりマシな生活を妄想する部分が情けない。
たとえば天国に逃げていけるとか、次はもっと楽な物に生まれ変わるとか、
あるいは、自分が死んだ後にあの人やこの人が考えを改めてくれるんじゃないかとか。
死んだ人の負けって思ってなくて、何かしら勝利を期待する浅はかさに爆笑。
よって、社会に期待するのは、死という現実を突きつける教育と報道。
焼肉を放送するなら、生きてる牛を旨そうに表現し、殺して部位を切り取るところから見せろ。
病気の治療の副作用で、人の姿でなくなるところも見せろ。
自殺したら死体を焼いて骨になって埋める所を見せろ。
魂と肉体を分離できる仕組みはないので、天国には行けないし生まれ変わることも出来ないし、
目も耳もない上に脳に電流が流れてないから、自分を上空から見下ろすことも出来ない。
全ての遺書に共通する、自分が死んだ後にどうなるかというくだらない妄想をやめさせよう。
いじめを無くすのはもちろん重要だろうが、いじめられたら死ねばいいという発想をまず無くせ。
いじめられようが虐待されようが、飢えようが被爆しようが、死ぬよりマシだと思うよう教育しろ。
死んだ方がマシだという発想は、子供に死を見せずに隠蔽する教育の弊害に過ぎない。
虎と兎が仲良くするマンガを文部科学省が推薦してたら絶対にいけない。
殺して食べるのが自然な関係なのに、みんな仲良くすることだけを推奨するのはいけない。
根本的に動物は、殺して食うことと殺されずに逃げることのためだけに生きている。
人間だって食べ物は全て殺した生き物だし、死なないためだけに文明は発達してきた。
それが当たり前だと思ってない人が増えすぎたので、まずは死なないことだけ教育すべき。
それから、一部の教師が非常識で、がんばってるまともな教師が多いかのような報道は嘘。
そもそも、人に物を教えて先生とか呼ばれようとするなんて、全員異常だと気づくべき。
本来は、優れたことを言えば他人が耳を貸してくれ、そうでない場合は無視されるのだが、
クラスは自分の話を黙って聞いてくれるのが当たり前な環境なわけで、
そういう環境を求めるという時点で、まともな考えを持ってない人だけが教師を志している。
他に職がなくて偶然教師になった一部の人以外、熱心な人ほど特に危険な人ばかり。
親は過剰に期待せず、ろくでもない環境なのはわかっていて学校にやるべきだ。
だからこそ、どんな環境でも死ぬよりマシだと思える教育はしておかなきゃダメ。
といっても、先生がいばることによってもたらされる治安があるので、それは別に構わない。
あたしが子供の頃は、体罰が云々で騒がれていなかったので、先生はいばっていた。
そもそも、いじめというのは蓄積によってエスカレートすることだけが問題なのであって、
一回きりの嫌がらせなら、その一回をやるたびに、いばってる先生にチクって裁かせるべき。
その一回ごとのチクリで反撃していけない状況こそが、蓄積エスカレートを招く。
何かされて嫌な思いをしたときに、だからってどうしようもないとか、我慢しようとか、
そういう発想が出ちゃうのは、たとえ先生にチクってもぶんなぐってもらえないのが悪い。
人の嫌がるようなことをしたら、シャレにならないくらいに体罰を受けるべきだ。
よその人はどうか知らないが、少なくともあたしゃ体罰されないと何も覚えられない。
明確に損と得が存在し、損を避けて得をする構造が提示されないと何もしない。
いじめとか自殺とかに関しては、あまりに世間との認識にギャップを感じているので、
その中の一部を選んで書いても、誰も共感することはないだろうが。
前提となる常識が既にずれているの、導き出される結論もずれて当然だ。
[日記的なもの/未分類/2006]
自殺ブーム / 2006-10-31 (火)
2009/01/08 (木) 更新 ©2005-2009 汁么ゴ魚 by Wantech
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