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2008年 6月 4日 のアーカイブ
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パチンコ強盗が書いた謝罪の手紙が完璧だ。
出所してもまたやっちゃうような凶悪なやつだから、謝罪文もろくでもない物だろうと思って、
どこかにそんな雰囲気が出ていないかなと、そうとうツッコミどころを探して読んでも、
「反省していないからそんな手紙が書けるんだ」と言って揚げ足を取れる所が全くない。
その手紙を根拠に、彼は反省したんだと判断することはあっても、
まだ懲りてないような面があると判断されるような箇所は一切ない。
テレビでも手紙は立派だと言って取り上げていた。

果たしてパチンコ強盗は、本当に反省してあの手紙を書いたのだろうか。

反省してないのに、嘘でこんな完璧な手紙を書けるとしたら、それはそれで怖い。
そうだとすれば、人は反省したふりを完璧に出来るという事であり、他人の反省を信用してはならない。
反省したふりが下手な人もいるので、上手な人と区別されがちなだけだ。
ささやき女将は反省したふりが下手だから、誰が見ても反省してないとわかった。
しかしパチンコ強盗は反省したふりが上手で、本当に反省した人と区別がつかない。
反省したかどうかを、本人以外が判断し、たとえば量刑に反映させたりするのは危険すぎる。
ふりが上手な人も下手な人と同等に、すなわち、反省してない物と推定した方が良い。
手紙や態度を見て、この人は反省したんだとか、許してやろうとか思っちゃうのは危険だ。

逆に、本当に反省したからこそ、完璧な手紙を書いたとしたら、それもやっぱり怖い。
ちゃんと反省した人ですら、またすぐ悪いことをする可能性があるんだからな。
反省という物は、将来も犯罪を犯さないことを保証することではないようだ。
悪いことをしたことはわかったが、かといって今後またやらないとは言えないのが反省なら、
人の反省を信じる意味など全くない。

すなわち、反省したふりがうまい人はいるし、反省してもまたやる人がいるしで、
反省とか謝罪とかで許すっていう考え方は危険じゃないのかと。
許してあげたい人が個人的に許すのは構わないが、公平にシステム上許さない法整備が必要かと。
システム的にというのは、出所してもずっと、誰でも犯罪者だとわかるようマークをつける事で、
個人的にと言うのは、そういう人でも雇ってあげる優しい工場経営者ね。

少なくとも、こいつは反省したんだと勝手に判断して仮釈放したり、
刑期を終えたらチャラになったから差別しないようにとか、
悪いやつの気持ちを全然わかってない連中はどうにかしなきゃいけない。

あたしは頭がおかしい自覚があるので、マトモな人ならどう考えるのか、常に相手の気持ちを想像する。
ところが、マトモな人たちはみんな、頭がおかしい人の気持ちは「考えられない」と思考停止している。
考えられない、考える必要もない、多数派にあわせろ、という発想しかないのだろうが、
時には殺人犯の気持ちにもなっておかないと、殺人事件を減らせないんじゃないのか。
法律も全てマトモな人向けで、マトモじゃない人による犯罪の防止にはうまく作用していない。
マトモな人による犯罪なんてたいしたことないんだから、マトモじゃない人をターゲットに切り替えろよ。