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2006年 11月 11日 のアーカイブ

例えば某氏は、サイレンを鳴らして傍若無人に滑走する消防車を運転したくて消防士になった。
しかし火事なんて、そう毎日起こるわけでもないから面白くないらしい。
早く大人になりたいと思っていたのに、今度は子供の頃はよかったとか言ってる人もいるが、
子供の頃は大人がどういう物かわからなかったから、良いところだけ見えていたんだよなたぶん。
消防士ってどういう物か、大人ってどういう物か、なってみなきゃわからなくて当然
わかってる部分30%、わかってない部分70%だとすると、
わかってる30%の内の15%はよい成分、残り15%は悪い部分という割合だったとしても、
わかっていない70%は、必ず希望的に解釈するため、
合計すると85:15ぐらいの割合で良い物に見えてしまう物なんだよな。
消防士になりたいという気持ちは、消防士を理解した上でのあこがれではなく、
知らない部分を希望的に補完した、架空の消防士に憧れている場合が多い。
自分がなりたい物と、現実に存在する物とがピッタリ一致する事なんて滅多にない。

さて、我々は全員、死んだことがないからこそ生きているわけで、
生きている我々にとって死とは、子供からみた大人と同じくらい理解できていない。
生きてるくせに知ったかぶりして死後を語る人って、大人ぶってる人みたいな物なんだよな。
じゃぁ、遺書はタイムカプセルみたいな物なのかな。
どっちにしろ、死という物をわかった上で死にたいと言ってる人はいない。
自分で死という物を想像して、その架空の死んだ自分になろうと思っているわけだな。

死んだら自分は苦しみから解放されているのではないかと妄想
自分が死ぬことで、生きてる人になにか影響を与えられると妄想
注目されてたり、後悔してたりする人々を妄想し、特に守る物もないので実行。
希望的な妄想をしてる彼らを笑っている我々だって、死を絶望的に妄想しているに過ぎない。
妄想以外で死を認識する事なんて、生きてる我々には絶対に出来ない。

希望的解釈で死を妄想するしかなくなった人って、たしかにかわいそうではあるけれども、
そうなってしまった人は死んでも放っておいたらいかがだろうか。
我々は、死は悪い物だという前提で、命は大切だという話をするわけだが、
死を望む人にとっては、そうでない人には想像できないほど、死は良い物らしい。
そんな彼らに死ぬなと言うことは、独自の妄想というか死生観を押しつける宗教的行為にあたる。
彼らだけ間違っているかのようにとらえるのではなく、
自分も妄想で善悪を決めつけているのだと言うことを顧みて、
死にたい人には、誰にも迷惑をかけずに死ねる施設を作って、死ぬ自由を与えてもいいじゃん。
国立自殺センターとかいってな。

自殺予告してる人にもぜひ、笑ってサヨナラしてやろうよ。
我々とは進みたい進路が違っていたんだから、押しつけがましく引き止めちゃ悪いよ。
え?自分でやりたいことをやるって言ってるのに、どうして応援してあげられないの?
いくら親だからって、子供のやりたいことを邪魔するのはエゴだよ。
たとえ死ぬとしてもな!

塾とか行かせる金と時間があったら、死を教育することに費やした方がマシだったな。
勉強しろって行った回数と死ぬなっていった回数を比較してみればいい。
必要なことを怠った親のミスだな。