アンチ脱短命県のたとえ

青森県は男女とも最も平均寿命が短いと言うことになっている。
脱短命県などというフレーズを使って、いろいろやろうとしている。
小学校の参観日を見に行ったら、AとBの味噌汁を飲み比べろとかいうのをやってた。
その後、給食でラーメンのスープをみんな残すようになったらしい。
あたしはその、脱短命県という方向性に共感出来ない。
自分自身が生きたいと思ったことがなく、死にたくないと思えた日はまだない。
誰もが、たとえ苦しくとも一日でも長く生きたいのだと決めつけすぎじゃないか。
苦しいくらいなら早く死んでもかまわない人だっているだろう。
特に青森県という劣悪環境で、はたして長く生き住まう価値などあるのか。
小学校の授業にまで徹底して、塩分を控える教育をやって鵜呑みにさせるほどのことか。
そのラーメンのスープをクラスのみんなが残したよという話を聞いたとき、
でも自分は長生きよりおいしさを選んだよっていう話もされて、似てるなと思った。
先生が言ったことを鵜呑みにして、自分の判断をねじ曲げる気がない。
鵜呑みじゃなくても点数稼ぎでそれをやる気も無い。
他人は他人でやりたいように、自分は自分のやりたいようにという性格だ。
もう一人は言われたことを疑問に思わずキッチリやる子だけどね。
あたしも小学校の頃はなんでも疑問を持たず従ってた気がするわ。

その件で、あたしは例えを出した。
一粒のお米を食べるのと、お腹いっぱいウンコを食べるのとどっちを選ぶかと。
まぁ、ウンコですら美味しく食べられるという人がいるかも知れないが。
一秒の天国と、百年の地獄でどっちを選ぶかと。
地獄の中でも楽しみを見つけられるなら我慢出来るかもな。
じゃあ百年間ずっと地獄でウンコを腹一杯食べ続けてれば良いじゃない。
ちょっとの快楽と長い苦しみと、どっちを選ぶかなんて比較にならない。
究極の選択でもなんでもない。
生きる理由があるのなら、それ以外のオプションはいくらでも変更できる。
生きる理由がないのなら、今よりつらい生活に変更してしかも長くはできない。
米をクソに変え、天国を地獄に変え、しかもその期間を長くする気はない。
米をクソに変えてでも、将来の子供の成長を見たいってんなら止めはしない。
どこを我慢出来るかと、何を望むかは人それぞれだって話よ。

長く生きたいと思う前に、まず死にたくないと思えるほどのモチベが必要だろ。
人間なんて、ほっとけば結婚して子供産むと決めつけてたら、少子化してるだろ。
ほっとけばみんな長生きしたいと決めつけてたら、ツラいくらいなら自殺するだろ。
ツラいけどラーメンのスープはうまいから飲み干すって人になって欲しい。
楽しかったら、生きたかったら、そりゃ自然に塩分を控えるようになるかもな。
それより先に、まず楽しいことを見つけ、生きたくなって欲しいよな。
生きたくて当然、楽しくて当然、と決めつけて長生きの教育をする前に。
地獄でクソ食って長生きする教育の前に、一瞬でも天国で飯を食う教育を。

たぶん関連のある記事:

コメントは終了しています。