[日記的なもの/未分類/2010]

矩をこえず / 2010-02-12 (金)

孔子という人が言ったらしい名言集の中でも特に有名なやつで、
多くの人が参考にし、自分は何歳だからどうあるべきだなどとよく引用されている節があるが、
その中でも特に、ゴールであろう七十が最もチンケで、どいつもこいつもよく妄信するものだよ。

孔子が七十でどうなったかというと、特に気をつけなくても道徳を守れるようになっただけだ。
そんな物は七十になってようやくではなく、ほとんどの人は子供の頃からできて当然じゃないのかと。
仮に百歩譲って、子供の頃は気をつけないと道徳を守れないが、七十なら気をつけなくても守れるとする。
しかしその、守らなきゃいけないルールなんて絶対的な物ではなく、人間が決めた物なわけで、
今と昔でも道徳は違うし、国が違っても善悪が逆だったりするし、
まして法律のように明文化してないものは、実は自分と社会との間にさえギャップがあるかも知れない。
すなわち孔子の言う矩をこえずの矩は、孔子が自分で何が矩かを勝手に判断した物であり、
当たり前のことだが、矩をこえたかこえてないかを判断するのも孔子なんだよ。
勝手に自分で決めただけの思い込みの善悪に、自分が従うかどうかは他人にとってはどうでも良い。
どうでも良いような自分ルールに縛られて、69歳まではいろいろ我慢していたが、
70歳にはもう自分ルールを破ってまでやりたいほどの事がなくなったと言ってるのであって、
自分ルールが社会のルールに合致したかどうかはお構いなしで、好き勝手な自己満足を得ただけだ。

勝手に決めた自分ルールで、それに従えば立派なんだというプライドを捨てられず、
七十にもなって自分のプライドを満たすほどの善人になれましたよと言ってるわけだ。
まぁ、七十にもなった人なら呆けてそれくらいのことを口走っても仕方がないわけだが、
そのことを立派だと勘違いして書き留めた連中の無能さや、妄信して引用する人達があきれるね。
教科書に使う文科省、何とも思わず教える教師もどうなのかね。

って、この件を思い出したのは、矩をこえたって良いじゃないかと思う機会があったからだ。
孔子は死ぬまで自分ルールに縛られ、自分的に美しい生き方にこだわってプライドを保ったが、
プライドも何もなく、生きても死んでもどうでも良ければ、楽しいのが一番であって、
こんな事をしたらバカだと思われるからと思って遠慮していたことでも、楽しくやってしまえばいい。
何しても許されるとしたら何がしたいのかと自問するのだが、
べつに許されないことの中で何がしたいのかって、なかなか思いつかないんだよね。
あたしは生きてもいたくないし自分で死ぬ元気もないし、
ダラダラつまらなく長生きするのが一番嫌だから、短命でも楽しくやりたいわけで、
楽しければべつに矩をこえたからって、そのことでどんなマイナスがあってもどうだって良い。
さぁ、何しても良いんだから何が楽しいかって問われたら、何にも楽しいことが思い浮かばない。
破ってはいけないルールを破ることは楽しいが、ルール自体がないとなると難しい。
矩のこえ方が全然わからん。

美しく生きる気はなく、楽しく何にも縛られず、他人の迷惑など無視し、自分本位で生きてるつもりだ。
でも、法律を破ること自体が楽しいとか、迷惑をかけること自体が楽しいわけじゃないし、
そりゃ気がつかないうちにいろいろやらかしてることはあっても、そうなると気づきもしないわけで、
それ以外は悪いことしてないつもりなんだから、あたしは吾三十有五にして矩をこえずって事になるわな。
これって良いことか悪いことかっていったら悪いことだろ。
自由な発想もできず、悪いことしても気がつかないし、自分は善だというプライドでいばってる。
情報の少ない時代とは言え、七十でまだその程度の事を思ってる人が尊ばれる世だったんだな。
せめて現代人は孔子を尊ぶのではなく、むしろバカにしようよ。


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