ずっと続けてきたことだからって正当化するのはおかしい。
時代によって正義も変わる。
昔はよいことだったのに、今はわるいことに変わった物がたくさんある。
ずっと続けてきた物をこれからも続けていくかどうか、という疑問を投げかけられた時というのは、
何か悪い点があるからこそ、そこを変えなきゃいけないと前向きに考えるべきなのに、
悪い点があっても絶対やめないし、その理由として文化伝統を持ち出すのは、後ろ向きで卑怯だ。
今朝、豚小屋の親玉が逮捕されたニュースで持ちきりだったが、
元力士らしきコメンテーターは、文化をそのまま守って後世に伝えたいと考えていて、
そういう物として続けるべきだという話をしていた。
ケンカしたらどっちが悪いかではなく、どっちが先輩かで決着をつけるのが伝統であり、絶対守りたい。
親方の言うことは絶対で、酔っぱらってても、法律とは矛盾してても、伝統だから絶対守りたい。
何も変えてはいけない。
親方が見てない所でやるのは暴行だが、親方の前でやればかわいがりであり、法律に違反しない。
って、人間社会の法律を豚社会の法律で上書きしちゃうのが、いかにも豚らしい発想じゃないか。
諸行無常、もののあはれを解する伝統的日本人が、伝統にしがみつくのは実に不愉快だ。
よその国の人はどうなのか知らないが、日本人は日本の伝統を過剰に大事にする傾向がある。
祭りとかも、多少危なくて死人が出ようが迷惑をかけようが、伝統だからと言われるとみんな納得する。
正しいかどうかの判断を誤らせる材料にしかならないなら、伝統なんて害にしかならないだろう。
さて本題は捕鯨問題だ。
諸外国からやめろとプレッシャーをかけられ、日本に売れば儲かると思っている後進国まで巻き込み、
捕鯨をやめるに値する理由は十分にあるが、続けるに値する理由が本当に存在するのか。
あたしは右翼なので、外国の言いがかりに屈するのは大嫌いで、ぜひ打ち負かしてやりたいが、
通るはずもない道理を無理に通すのではなく、納得できる話で押し切りたい。
ところが、捕鯨を行う理由が前述のような物であるため、話し合いすら成立していない。
クジラは日本が食糧難だった頃、貴重なタンパク源として重宝されたらしいが、
だったら、食糧難になった時にまた取ればいいし、食糧難でない時も取り続ける理由にはならない。
過去に捕鯨を行った理由が、今も捕鯨を行う理由にはならない。
昔必要だったことが、今も必要だとは限らないのだが、今本当に必要なのか?
今まで良かったんだからこれからも良いに決まっているなどという発想は、議論を避けてる事になる。
捕鯨という日本の文化を守りたいがために、もし世界全体の利益を損なっているとすれば、
それは相撲の文化を守りたくて法律を無視する豚小屋と同じじゃないか。
また、捕鯨に反対する西洋諸国に対し、「おまえらも昔は油が欲しくて乱獲したくせに」と返すのも無理。
昔やってたけど今は反省してやめた国に対して、昔やってた国は黙ってろ見たいに言って良い物か。
やめた国を黙らせた所で、自分たちのやってることが正当化されるわけじゃない。
俺だけ捕まえるのはおかしいって、スピード違反の人みたいな言い訳も通らない。
重要なのはただ一つ、今、どうしても捕鯨をする必要があるかで、
無いなら無いと言った上で、ようやく、やめるに値する理由が十分か検討できる。
文化だ伝統だと言って、全く話を聞かないでいる間、日本人として恥ずかしい。
一体どこに、捕鯨の必然性があるのか。
諸外国からの言いがかりに何で対抗すれば、奴等に思い知らせる事ができるのか。
ちゃんと議論して、どっちが正しいか決めるために、歴史を持ち出すのはやめようぜ。
すぐ歴史を話したがるどこかの朝鮮みたいで情けないから。
[日記的なもの/未分類/2008]
文化伝統イラネ / 2008-02-08 (金)
2009/01/09 (金) 更新 ©2005-2009 汁么ゴ魚 by Wantech
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